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-対談- 藤田登太郎『桃山志野現代に焼く』

幻と言われる茶碗がある。      
十六世紀後半の、わずか数十年だけ焼かれていたという桃山志野だ。       
現存する茶碗の数は少なく、その製法は途絶えている。      
その桃山志野を現代に蘇らせたいと半世紀以上もの長きあいだ心血を注いできた。     
その取り組みは神の手に導かれているようだった。  
運命を感じる出来事が私を導き続けた。

                 

自らを「茶碗屋」と呼び、茶碗のみを半世紀以上も焼いて来られました藤田登太郎氏は全国各地で志野茶碗を中心の茶陶展『桃山志野現代に焼く』を開催されていらっしゃいます。藤田氏の焼く志野茶碗や、その人間像などにつきましては雑誌や新聞紙面などでも度々取り上げられますのでご存じのことも多いかと思いますが、様々な分野でご活躍のお客様方との会話の中では専門的、且つ具体的なお話もたくさんされていらっしゃいます。今回は、陶材探しの秘話や制作過程、桃山志野に懸ける想いなども更に詳しくお伺いいたしたいと思います。

 

藤田先生が各地で開催されていらっしゃいます茶陶展のタイトルをはじめ作品集、ポスター、DMなどのすべてが『桃山志野現代に焼く』となっていますが「桃山志野」とはどのような焼きもので、焼くきっかけはどういったところからだったのでしょう。

 

桃山志野は十六世紀の後半、安土桃山時代のわずか十数年だけ焼かれた美濃(今の岐阜県)を代表するやきもので現存する数が少ないため現代では幻の茶碗と呼ばれています。私は昭和十一年、徳島県の茶家に生まれました。そのためお茶とは生まれながらにして深い関わりがあったのです。しかし戦争が始まり茶のような嗜みごとは厳しく禁じられ祖母の代で辞めざるをえなくなってしまいました。国中の皆が食べることに精いっぱいだった終戦後の焼野原で大切にされていたであろう古いものがあちらこちらでタダ同然に売られているのを見て、私はやりきれない思いをしたものでした。しかし絵や書は焼けて跡形も無く消え去っている中、やきものだけは箱は燃えても無傷で残っていました。それに割れていたとしても継いで直すことが可能でした。日本はいずれ復興すると信じていましたが、その時に日本の文化を立て直すのはやきものしかないと思ったのです。私は茶に関わる仕事をすべてこなすことで将来は身をたてようと考えました。そして茶人で陶芸家でもありました同郷の方のところへ弟子に入り、住み込んで陶芸や茶道、華道、茶料理、詩歌、絵画などを学びました。

 

藤田先生は料理人で絵や写真もプロ。和歌を詠み書を書かれ、茶杓も削られますよね。そのように多才でいらっしゃるのは、そこに原点があったのですね。その時に志野焼きの修業もされたのですか。

 

その時は「志野」というやきものがあること自体、私は知りませんでした。十代のころ、すでに私の焼いた井戸茶碗や萩茶碗、唐津茶碗などは大きな評判を呼んでいたので自分でもいっぱしの職人として通用するのではないかと自負していました。私はその年に焼けた自信作を京都の大きな寺に毎年奉納しており、そのころにご縁をいただいたのが大徳寺の立花大亀老師でした。私の焼いた井戸茶碗を見るなり「これはええ井戸茶碗や、立派なもんや。ここまで焼ける人を私は見たことがない。」と、たいそう褒めてくださり「藤田さんなら桃山志野が焼けるかも知れない。」と、おっしゃったのです。桃山志野という名前を耳にしたのもこの時が初めてでしたが、私は「やってみます。」と即座に答えていました。

 

藤田先生の人生を左右する重要なご縁だったわけですね。桃山志野というやきものの存在をご存じなかった先生は、その後どのような行動をとられたのですか。

 

桃山志野とは安土桃山時代に焼かれた志野焼きのことを指します。四百年以上も昔のやきものですから当然教えてくれる人は誰もいません。当時は陶片で志野焼の研究をしていた方が大勢いました。斯く言う私もその中の一人でしたが、ある時「陶片は良くなかったから捨てられていたのだ。」と、いうことに気がついたのです。焼くからには最高の桃山志野を焼きたかった私は、やはり桃山志野の茶碗を見ることが一番の勉強だと思、全国各地の美術館に足をはこんでは伝丗の桃山志野を見て回りました。しかし数が少なくどこの美術館でもケース越しでしか見ることができずあまり勉強にならないと思っていた矢先、国宝の卯花墻という志野茶碗を見る機会を得たのです。今までに見たことの無い神懸かり的な美しさにすっかり心を奪われていました。桃山志野は桃山時代に既に完成されたやきもので、そのころには四人の陶工がいたそうですが現代には継承されていませんでした。「誰も焼けないなら自分が焼いてやろう、五人目の陶工になってやるぞ!」とその時、心に決めたのです。その後、様々なご縁をいただき桃山期の志野茶碗の入手も叶い実際に手に取って勉強することができたので、そこが私の『桃山志野現代に焼く』の原点だと思っています。

 

桃山志野に懸ける藤田先生の姿勢は半端じゃないですね。

 

思ったことは直ぐに実行しないと気のすまない負けず嫌いの性格と、長年焼けなかったからこそ今まで焼き続けて来られたのかも知れません。簡単に焼けていたら直ぐに飽きて辞めていたでしょう。

 

継承されていないものを現代に蘇らせようと半世紀以上にも及ぶ藤田先生の継続は執念そのものですね。簡単に焼けなかったというその桃山志野にも興味がわいてきました。先ずは桃山志野を焼くための陶材について教えてください。

 

私が志野を焼いているのは百草土(もぐさつち)と言い、鉄気が少なく粘り気の全く無い土です。百草土という名前の由来は諸説ありますが、昔は川であった水の少ない痩せ地(現在は川でないところ)で河原蓬(カワラヨモギ)の自生する場所にあると聞いたことがあります。お灸に使用されるもぐさに似てパサパサした土に由来しているのかもしれません。私はその百草土の原土を混ぜ物なしの単味で焼いています。粘り気が無いため成形が極めて難しい土ですが、長く焼くとやわらかい質感なのに物凄く硬くて頑丈になるのです。

 

その百草土というのは、どこの土ですか。

 

岐阜県可児市の土で三億年ぐらいも前のものです。掘れば何処からでも出てくるというものではなく、この地方のごく限られた四キロ四方にしか存在しない土で木や草の炭化物がたくさん混じっています。現在はもう取れないので私が所有している十六トンが最後ではないでしょうか。

 

掘れば何処からでも出てくるというものではないとは、どういうことでしょう。

 

地層になっているところであれば掘るとそこから出てくるのですが、根砂に包まれた丸い玉状で出てくるのでその塊を一つ一つ探さなければならないのです。

 

入手困難な希少な土ということですね。藤田先生がお使いの百草土と、一般的に志野を焼く土との違いはどういったところなのでしょう。

 

今は誰もが使いやすいように最初から調整がとられています。自分で土や釉薬などの陶材を探すことは私たちの時代では当たり前でしたが、現代は色々な制約もあって難しいのかも知れません。

 

桃山時代の技法とはどのようなものだったとお考えですか。

 

いつの時代も同じだと思いますが土を粘土にして轆轤で挽いたあと成形。削りを経て釉掛け、サヤ詰、窯組、そして窯焚きです。窯焚きの後は窯出し、選別となります。窯焚には赤松の丸太を用い二週間ほど焚きます。桃山期の志野と現代志野方との明らかな違いは土(百草土の原土)、釉薬(千倉石)などの陶材の他、技法としては素焼きをしないことでしょうか。ヘラやマガリ、しっぴきなどの道具も手作りしていました。昔はサヤも百草土を挽いて作っていました。今考えると良い志野茶碗が焼けた一因だったかもしれません。

 

サヤとはどのようなものですか。手作りのサヤの方が良かったと思えるのはどういったところからなのでしょう。

 

サヤは円柱形で茶碗よりひとまわり大きい陶器で出来ています。釉薬を掛けた茶碗を一つづつ入れる入れものです。手作りの場合、茶碗に合わせて大きさや厚さや高さが自由に変えられるという利点があります。サヤと茶碗が同質(百草土)という点、既製品と違って窯詰めした際に色々な箇所に微妙な隙間があくという点などの影響によって、味わい深い志野茶碗が焼けたのではないかと推察します。窯も同じで、長年使用して壊れそうになった窯から良い志野茶碗が生まれていたように思います。

 

藤田先生が長年の研究や試行錯誤によって実際に体得されたものは、私のような素人でも興味をひきます。順をおって具体的にお聞かせください。

 

藤田 先ずは百草土の入手です。私が昔、ひょんなことから所有することになった土地から出てきた百草土の原土で混ぜものなしの粘土を作ります。

 

その、ひょんなことが凄く気になります。

 

私は昔、桃山期の志野の土とされる百草土を探すため、その桃山志野が生まれたという美濃一帯によく出掛けていました。いつものように夜汽車に乘って探していた時、同じ車両に乗り合わせた方にお茶を勧めたことがきっかけで親しくなり世間話をしていると「自分の所有する芋畑に古い窯跡があって、そこのアケボノという土がやきものに使われていたかもしれない。」というのです。その方のご厚意でお宅に一泊させていただき翌朝に見に行くと、粘り気が無くサラサラとした桃色の綺麗な土でした。試しに少しいただいて帰り、焼いてみると良い具合に焼けたので「この土が百草土に違いない」と確信しました。先ほどの話にありましたが百草土は大小様々な塊であちらこちらに散らばっているため、その土地にまだ百草土が出てくるかどうかは分かりませんでしたが、その方に分けてほしいとお願いしましたところ、誰が来ても手放さなかったというその土地を私にならと快く譲ってくださったのです。私の感は当りそこから百草土の塊が出てくるのですが、手掘りで一つ一つ取ってもらうため何年もの歳月がかかりました。

 

待望の百草土が見つかって良かったですね。ご縁がご縁を呼ぶという本当に不思議な出逢いですね。その百草土の塊(原土)は、どのようにして粘土にするのですか。

 

私の粘土作りの最大のコツは土をよく乾燥させることと、綺麗にしすぎないということでしょうか。百草土の原土を粗莚の上で幾日もかけてよく乾燥させ、そのあと木槌で打って粒を揃えます。それをタンクに取り上から水を加えて時間を置いては攪拌して大きなタンクに移すという作業を何回か繰り返して粘土の濃度を高めます。一週間後に元の粗莚の上で水切りをして帆布の上で二〜三時間ほど踏みますが、その時に中に入っている小石を除きます。練り台の上で大押しにかけて轆轤で挽きやすい大きさに揃えて、それを室に入れて乾燥を防ぎます。

 

土は何年か寝かせると聞いたことがありますが。

 

私の所有する百草土は既に三億年ぐらいは寝ていますので寝かせる必要は無いでしょう。

 

藤田先生らしい面白い自論ですね。次は成形ですか。

 

百草土の原土で作った粘土は粘りが無いので轆轤挽きには何年もかかりました。

 

志野茶碗を焼く前は井戸茶碗などの開き茶碗をバンバン轆轤挽きされていらしたのでしょう。百草土での轆轤挽きに何年もかかったなんて信じられません。

 

それほど扱いにくい土ということです。しかし「私にはこの土しかない。昔の人に出来て自分に出来ないことはない。」と、かえってファイトが湧いたものでした。茶碗は用の美の追求ですから他のやきものと違って約束ごとが非常に多く、そのあたりの勉強にも時間がかかりました。ただ、幼い頃から伝世の茶碗を手にする機会が多く、茶碗に慣れ親しんでいたという点に関してはそのような環境にあったことに感謝しています。

 

藤田先生のお茶碗に対する感性や美意識は幼い頃より自然と培われてきたものだったのですね。

 

やきものの中でも茶碗は昔から特別な存在で、見た目だけでなく手触りや持ちやすさは勿論、茶の点てやすいことは基本です。茶筅が振れるだけの見込み(懐)は必要ですし、持った時に受け手と添え手がピタッと茶碗に吸い付くようでなければいけません。当然、飲み口も必要です。でも、そのつくりが人口的でなく自然でないといけないというところが最も難しいところなのです。

 

人口的でなく自然なお茶碗のつくりというのは、どういうことでしょう。

 

単に形だけにとらわれるのではなく無作為でなければいけないということでしょうか。自然界や精神的なものの一体化が必要ということです。茶碗は理に叶ったやきもので、用の美の追求だけではなくその精神性も重要となってきます。茶道、華道、書道、剣道、柔道、相撲道など日本には「道」の付く文化がたくさんあり精神性が深く関わっています。ですから茶碗づくりにおいても品格とか品位とか目に見えないもの、心で感じるものが重要だと思うのです。

 

お茶碗づくりに精神性も関わってくるということをお聞きしますと、何だか怖い気がします。品の良さというのは内面から滲み出てくるような捉え方ですから、それを目指すというのは難しいですね。結局は、ものづくりをする上での姿勢とか心構えが大事ということになるのでしょうか。藤田先生が作られる志野茶碗の造形は桃山時代と同じつくりということですか。

 

桃山期の志野茶碗は大らかで自然な造形をしています。そして本体の下部には箆で鋭くえぐったような横筋が見られます。私は長い間、これが何のためにあるのか不思議でたまりませんでした。単に装飾とは思えなかったからです。そんな中、ある美術館で桃山期のものだという長い首が本体にめりこんだ花入を見た時に、ようやくその謎が解けたのです。普通は作りたい茶碗の形を思いうかべて轆轤挽きをするものですが、先に鉄砲玉のような形に轆轤を挽いた後に、ドンとつかしているのではないかと思ったのです。そうすると、その横筋の説明がつくからです。ドンとつかす際に、それ以上潰れないように前もって筋を入れていたということです。私は謎が解けた嬉しさよりも、その「つかし」の技法を桃山期の陶工たちが既に考案していたことが驚きでした。

 

茶碗造形の方法や割れ止めを施していた先人の知恵も素晴らしいと思いますが、四百年後にそのことに気が付いた藤田先生の洞察力はもっと凄いですよ。

 

四六時中、志野茶碗のことだけを考えていましたから。そして経験上、そのつかしも乾燥の途中に一度だけ可能なことや、そのつかすタイミングが非常に難しいことも数をこなしていくうちに分かりました。

 

乾燥の途中に一度だけつかすことが可能というのは、百草土の原土に粘り気が無いため潰れやすいということですね。百草土の原土というのは扱いの難しい土だということがよく分かりました。藤田先生の焼かれた志野茶碗の中には横箆目の付いていないものがありますが、それはそのことに気付く前に作られたお茶碗ということですね。

 

いいえ、それは反対です。私が昔に焼いた志野茶碗には横筋ありますが、比較的新しい志野茶碗には付いていません。それは、長年の経験で横筋を入れなくても潰れることがなくなったからです。しかし、高台脇にはどうしても多少の亀裂が入ってしまいます。使用には問題ないので、これも見どころとなっています。

 

どこかに歪が出るということですね。藤田先生の志野茶碗の口辺も独特ですね。優しさと険しさが融合したような雰囲気があります。

 

口辺には五山の法則を用いています。五山というのは山あり谷ありということなので、「自然」を表現しています。飲み口は当然ありますが、「どこから飲むのだろう?」などと考えていたらお茶も美味しくないで皆様にはお好きなところから召上っていただいています。ただ、山からではなく谷の方から飲んだ方が飲み易いですとのアドバイスはします。

 

飲む方に恥をかかせないという配慮も含め、お茶を美味しく召上っていただくための心遣いが随所に見受けられるつくりが素晴らしいです。轆轤挽きの次の作業は何ですか。

 

乾きの状態を見ながら木箆でデフォルメを加えて大まかに成形します。そして再度、調整をとりながら茶碗に仕立てていきます。私は料理人なので粘土もリンゴの皮を剥くように横に削れるということが独特の造形を生んだのかもしれません。桃山期の志野茶碗もこのような削りがなされていますが、粘土を横に削るという作業は想像以上に難しいです。

 

リンゴの皮を剥くような横削りの技法のおかげで、手にピタッと馴染むお茶碗が生まれたのですね。次にお伺いしたいのは釉薬ですが、志野を焼くための釉薬とはどのように出逢ったのですか。

 

今のように高速道路もコンビニも携帯電話も無い何十年も昔のことになりますが、同じ陶芸家の親友が亡くなった時に私は岐阜県の彼の家へ駆けつけました。入棺をすませ最期の別れのあと、疲れていた私は温泉で体を休めようと車を走らせていました。喉がカラカラで中津川近くの谷へ下りて行って水を飲もうとした時のことです、辺り一面がカナリア色で「あっ、これだ!」と、すぐに直感しました。あの時の興奮は今でも忘れられません。何年も何年も彼と二人で山野を歩き探し求めた志野石が、彼が亡くなった直後に見つかったのは偶然だったのか、それとも彼が導いてくれたのか。その後、それまでの伊予窯を「山河をあずかり君の分まで焼くぞ」という意味を込めて与州窯(よしゅうがま)と変えました。与の文字にはあずかるという意味があるのです。

 

藤田先生のお話をお伺いしていますと間違いなく必然だと思います。重要な場面で運命的な出逢いが次々とあるのですから。

 

運命なのかも知れません。桃山期の志野を焼く上で要となる百草土や志野石などの陶材が見つかったとしても、二週間以上の窯焚きに耐える気力や体力が無かったら、今の私の志野茶碗は存在していませんから。実際にそういう不思議なことを何度か体験すると、何か目に見えないものにでも操られているような気さえしてきます。

 

運命に沿い、何に対しても拘りをもって妥協しないという姿勢の延長線上に藤田先生の志野茶碗があるのですね。志野の釉薬となるそのカナリア色の志野石とは、どのようなものなのですか。

 

簡単に言うと川砂です。蘭川(あららぎがわ)上流から取ってきた砂をバケツに入れて掻き混ぜ、浮かんだ上水だけをすくい取って釉薬とします。最初は現地から重い砂袋を何袋も運んで持ち帰り、水簸したり細かく挽いたりして使用していましたが、焼いてみて初めて成分が違うことに気がついたのです。そこで何日間も現地に寝泊りして作業をするようになりました。何年か前に私と同じ方法で取りに行かれた方がいましたが、一生懸命に作業をして丸二日間で小さなタッパー二個分の量だったそうです。

 

気の遠くなるような作業ですね。それにしましても焼いてみないと分からないって随分、効率が悪いですよね。藤田先生がお使いのその釉薬と、他の釉薬との違いはどういったところなのですか。

 

私の使っている釉薬となる志野石(千倉石)はカリ系のペグマタイトという砂で二週間もの長いあいだ薪を焚き続けるわけですから土も育つし炎の色も茶碗にうつるのです。窯の中では酸化還元がたえず繰り返されて釉が練られます。そして、炎の洗礼を受けた志野茶碗が奇跡的に生まれてくるのです。それが茶の湯の世界で言われる「詫び寂び」に通じるのではないでしょうか。対して現在、一般に市販されているのは長石です。長石はソーダ系の石なので火を避ける性質があります。したがって、何日間焼いても火色は付きません。不透明で牛乳のような白い仕上がりになります。

 

窯の中で炎の色がお茶碗にうつっていくというのは、ずいぶん神秘的ですね。釉が練られるという表現も初めて聞きました。砂を掻き混ぜて、浮かんだ上水だけをすくい取ったものを釉薬として茶碗に掛けるということですが、なぜ掛かるのでしょう。細くても砂ですよね。

 

素焼きをしていな分、吸い取ろうとする力が強いのでしょう。それに、百草土と蘭川の砂は元々は親子関係にあります。風化の度合いこそ違いますが、本来は同質のものなのです。ですから、相性が良いということで肌分かれをおこさないという利点があります。

 

素焼きはしないということですが素焼きをしたものと、していないものとの違いはどういったところなのでしょう。

 

生素地には一定量の水分を受ける力が元々あり、素焼きをしたものと違って釉薬が必要以上に厚く掛かりません。ですから素焼きをしていない方が水分のバランスが自然ということになります。

 

でも、素焼きをしていないと壊れる確率は高いですよね。

 

生掛け(素焼きをしていない生素地に釉薬を掛けること)は、いろいろな意味でのタイミングが非常に難しいので、よく潰れます。しかし潰れた分だけ、また材料や手間を掛ければ良いというのが私の考え方です。コストや納期のことを考えていたら出来ない仕事です。それに、難しいからといって妥協していては自分の目指すところへは到達しませんし、それ以上のものも望めません。何ごとも出来るまでやれば失敗は無いわけですから。  

 

藤田先生のお話をお聞きしているうちに、段々と先生のお茶碗づくりにかける姿勢が分かってきたような気がします。「何ごとにも拘りをもって、出来るまで諦めない。」ということですね。そうやって長年、桃山志野に挑戦し続けてこられたのですね。

 

桃山時代の陶工たちもそのような想いを持っていたのではないかと推察しますが、経験の長さでは私は当時の陶工たちに負けていません。さすがに桃山時代に八十才を過ぎても現役で窯焚きをしている陶工はいないでしょう。寿命を比べると現代の方がはるかに長命ですからね。

 

より経験が積み重なった分、技術力が向上したということですね。

 

技術だけでなく、その時代背景も重要だと思っています。私は目をつぶると何処へでもタイムスリップをすることができ、その時代の人になりきることが出来ます。今までに存在しないものを創出することが如何に大変だったか、そして新たな発見や今まで謎だったことの解決の糸口も見えてきたりします。温度計の無かった時代は煙の色や火の勢いなどを見て焼けの判断をしていました。長年の勘だけが頼りということで代々引き継がれていたのでしょう。当時、志野茶碗は一城に匹敵するくらいの価値があったようで、焼けないと命がつなげないという辛い現実も垣間見ることができます。そういう意味では研ぎ澄まされた感性を必要とした時代だったからこそ精神性の高い志野茶碗が創出されたとも言えると思います。私は美濃あたりの桃山時代に志野を焼いていた名も無い陶工たちは職人+アーチストだったと思っているので、技術面だけではなくその精神性にも見習う点が多々あります。

 

藤田先生のアーチストの定義というのは何なのですか。

 

一言で言えば、過去を否定するということでしょうか。現状に満足していたり、そのものに固執・執着していたらそれ以上のものは作れないということです。私は、『桃山志野現代素に焼く』のとおり、桃山時代の陶工たちが現代に生きていたら創出されたかも知れない志野を焼いているのであって、決して桃山時代の物真似をしているわけではないのです。そして、それが大きな意味での過去を否定するということになります。結局、過去のものを否定していかないと現代にも未来にも作る意味がないということになってしまいますからね。そう言うと、桃山時代に沿ったもので且つ現代に受け入れられるものの創造を目指しているかのように聞こえるかもしれませんが、私は一般に理解されないものを狙っているのです。

 

藤田先生の生き方もアートですね。次は、窯焚きの準備をされていよいよ窯焚きですね。

 

サヤの中に成形して釉薬掛けをした茶碗を入れ、その茶碗の中に同じく釉薬を掛けたぐい呑を入れます。

 

お茶碗を何のためにサヤに入れるのか、そのお茶碗の中にぐい呑を入れる理由も分かりません。

 

志野は日本初の白い和製磁器なのです。釉薬にカリ系の石を使っているので灰をかぶれば志野特有の透明感のある艶やかな綺麗な肌にはならないのです。茶碗の中にぐい呑を入れるのは、サヤ内の窯圧を上げるのに輻射熱を利用するためです。桃山時代には茶碗の中に向付を入れていたかも知れません。

 

藤田先生はお茶碗しか焼かないとおっしゃっていましたのに、志野のぐい呑があるのは何故かと思っていました。志野茶碗を焼かれた時のみに志野のぐい呑が出来るのですね。ぐい呑も個性的ですから、先生が作られたのだとひと目で分かります。

 

私にとっての志野ぐい呑は志野茶碗を焼くための道具のひとつです。志野茶碗の練習のため、つくりも志野茶碗と全く同じなのです。焼く時の焦点は当然茶碗に合わせますが、茶碗が焼けなかった時に限ってぐい呑の方がよく焼けていたりするのです。ですから志野茶碗同様、志野のぐい呑もとれる数は限られています。私のぐい呑の特徴のひとつとして、四十五度に傾いて倒れないためお酒をこぼさないという利点や傾けたままお酒を注ぐとクルクルと回って元に戻るという面白さもあって楽しんでいただけているようです。しかし、自分が意図して作った造形では無いので他人から聞いて本人が一番驚きました。多分、長年の経験でバランスが良くなったということなのでしょう。志野のぐい呑は焼きによってずいぶんと表情が異なるので、四季や体調やその日の気分などによって選ぶという方や、鞄にはいつもマイぐい呑が入っているというお洒落な方が何人もいます。

 

一つ一つが個性的で、お酒のお好きな方には堪らないのでしょうね。先生のぐい呑は大ぶりなものが多いようですが、中には小さくて可愛いものもありますね。

 

私は不器用なので同じようなサイズのものしか作れませんが、焼きによって大きさも異なってくるのです。

 

大ぶりのぐい呑、小ぶりのぐい呑はそれぞれ別の窯から出てきているということですね。先生はお酒がお好きなのですね、ぐい呑の話題になったらとても楽しそうです。

 

日本酒は大好きです。酒が好きでないと酒飲みの器は作れないですからね。抹茶が好きでないと抹茶茶碗が作れないのと同じ理屈です。「好きこそものの上手なれ」って昔から言うでしょう。志野のぐい呑は志野茶碗の窯焚きの際にはテストピースとしても利用しています。窯のあちこちに置いて、窯焚き中に出しては割って焼け具合を調べるのです。サヤに入っていない裸焼きの志野のぐい呑は直接炎を受けるので肌がカサカサしていたり、煙をくってピカピカと光ったりして品に欠けるものが多いかもしれませんが、そんな中にも趣きのある仕上がりの良いものが出てきたりするから面白いのです。

 

想定外のものも面白いということですね。二週間もの長い間、窯の中で焚かれたわけですから傷や割れが愛おしいと思う方もいらっしゃるでしょうね。次の工程のサヤ詰めや窯組みというのはどのようなことをするのですか。

 

志野釉を掛けた茶碗の中に同じく志野釉を掛けたぐい呑を入れ、それをサヤの中に詰める作業のことをサヤ詰め、そのあとサヤ詰めしたものを窯に詰めていく作業のことを窯組みと言います。ただ適当に積んでいくのではなく茶碗の形や厚さ、火の通り道などを考えながら積んでいきます。例えば、焚き口に近いところには厚めの茶碗が入ったサヤを置くとか。季節や天候、窯の中の状態や些細なことによっても火の通り道が違ってくるので、どこに火の通り道ができるかを、ある程度把握することも必要です。窯の雰囲気によって茶碗の出来が左右されるわけですから、これも経験のいる作業の一つです。

 

今、お茶碗の形や厚さを考えてサヤ詰めをされるとおっしゃいましたが、轆轤挽きをされる時に形や厚さの異なったお茶碗を作られているということですか。

 

よく気が付きましたね。轆轤挽きし成形した茶碗は何十年も前から作り溜めていて、最近成形したものを含め色々あるのです。古いものは粘土が風化(砂化)しているため、釉薬を掛けて焼くと想像以上に良い仕上がりになる可能性があるので特に楽しみです。しかし「この茶碗は、いつごろのものですか?」と質問されると非常に困ります。作ったのは何十年も前だけれど、焼いたのはつい最近ということもあり得るからです。

 

何十年も前に作っていたお茶碗も一緒に窯に入れて焚いていたなんてビックリですね。その発想も普通では考えられません。それに、これも長い年数が必要ですね。でも、異なった造形で同じ焼けの志野茶碗が誕生するかもしれないと思うと何だかワクワクしてきます。次は、いよいよ窯焚きですね。その前に、窯のことについても教えてください。

 

焼く茶碗の種類によって窯の形式は異なりますが、志野を焼くのは穴窯です。今までに様々な窯を大小合わせて三十余り造りました。最初は見よう見まねで作っていましたが、数をこなし改良を重ねていくうちに自分に合った効率の良い合理的な窯ができるようになりました。過去には窯組みしやすいようにスライト式の天井を作ったり、夏場の暑い時でも窯焚きが可能なように窯の天井に水を張ったこともありました。窯焚きのあと段々と煉瓦を足して煙突のように高くなった窯もありました。現在制作中の大窯は長さが七メートル、壁厚が六十五センチもあります。天井には約四トンの土をのせ、窯の乾燥と温度の調子を見るために空っぽの窯を何日か窯焚きをしました。平行して小さい窯も縦型から横型へ変更中です。志野を焼く前には、空気のむらを無くして流れを良くするために窯内に風を送り続ける作業もします。

 

窯を手造りするというのは想像以上に大変ですね。窯焚きの前にも色々な作業があることを知りませんでした。それにしましても新しい窯の最初の窯焚きが空っぽだとは驚きです。まさに窯焚きですね。藤田先生はいつもお一人で二週間も窯を焚かれるとお聞きしていますが、なぜお一人で焚かれるのでしょう。大勢で焚かれた方が効率が良いように思うのですが。

 

大勢で焚いたら身体はきっと楽でしょう。でも、人には手癖というものがあって薪のくべ方ひとつをとっても、それぞれに違います。特に炎の調子や煙の出方などを見ての微妙な調整は人任せにはできません。私にとっての窯焚きは真剣勝負ですから。若い陶芸家の方々からは、「最低でも二週間の窯焚きを経ないと焼けない桃山志野なら、先生の体力維持を考えて何人かで交代しながら焚いたらどうでしょう。」との提案をいただいたこともありました。実際、長さが八メートル近くもある大きな窯を手造りした時には窯の乾燥を兼ねて皆でワイワイと窯焚きをしたことがありました。その時は志野茶碗では無く瀬戸黒茶碗でしたが、雑誌の取材も兼ねていたため温度を急激に上げ過ぎたことが原因で二日目の夜に窯の天井が落ちてしまいました。そのように、これまでの様々な経験を踏まえると複数での窯焚きには難しさを感じます。

 

それでは、二週間の窯焚き中はずっと寝られないということになりますね。

 

いえいえ、私はいつも寝ています。大きな丸太を窯いっぱいに入れると三十分ぐらいは燃えてくれるので、炎の調子を見ると後の二十分ぐらいは寝られます。「二十分経ったら確実に起きられるなんて不可能だ!」と思われるでしょうが、今は起きられます。何十年も窯焚きをしていると身体の方が自然とそんなふうに順応してきたのでしょう。最初の頃は寝ないで一生懸命焚いていましたから、途中で倒れて救急車で何度も病院へ運ばれたものです。寝過ぎて、ひと窯全部ダメにしたこともありました。それまでの材料や下準備が全部無駄になるわけですから、それは落ち込みましたよ。自分自身に腹がたって、履いていたスリッパで頭をパンパンと叩いたこともありました。そして長年の試行錯誤の結果、赤松の丸太を燃やすことが一番効率が良かったのです。今、考えると失敗は私にとってはかけがいのない財産です。それに私は負けず嫌いだから「満足のいくものをあと一碗、あと一碗・・・」そう思って現在も窯を焚いています。

 

今までのお話をお伺いしていますと負けず嫌いというのがよく分かります。

 

私が落ち込んでいると頭上でもう一人の私が「登太郎が泣いている!」と囃し立てるのです。それが悔しくてね。他人と比べるのではなく自分自身に対しての負けず嫌いなのです。

 

自分自身に対しての負けず嫌いを武器に、今まで不撓不屈に取り組んでこられたのですね。長年にわたっての様々な経験を経て、桃山志野を焼くコツというか極意というものを見つけられたのでしょうか。

 

結局、桃山当時と同じ条件で作るしか術はないということを学びました。材料しかり、窯焚きしかりです。先人や炎と対話をしながら結局は自分一人で焚くしか仕方がないのかも知れません。昔、私の焼いた志野茶碗を見てある著名な陶磁器研究者の方が「やはり薪で焚いた志野は良いのかなぁ。」と感心した様子で言われたので、「桃山時代には薪しか無かったですからね。」と答えたことがありました。

 

生れた時から既に燃料の選択が出来る現代に育っていると、言われて初めて気が付くということも多々あります。それに薪で窯焚きをしたいと思っても、今は環境的に難しい方もいらっしゃいますからね。窯焚きは体力や気力、そして時間との勝負ですが二週間の自分自身の闘いが終わると今度は待望の窯出しですね。

 

早く見てみたいという衝動に駆られ落ち着かなくなります。窯の前で用もないのにウロウロしてみたり。窯には三百から四百個入れていますが納得のいくものは一つか二つで他は志野になっていないのが現状です。一年間で二千九百九十六個焼いて一碗しか取れなかったこともあります。あまりにも焼けなくて、もう窯を焚くのは辞めようと思った最後の窯に一つだけ志野になっていた志野茶碗で、「泪」と銘を付けました。

 

随分と確率が低いですね。それに志野になっている、いないの違いはどういった点なのでしょう。

 

私が良し悪しを見極める上で一番に重要視しているのは土の焼け具合です。以前は志野になっているか、いないかは割って調べていましたが今は割らなくても土の状態が手に取るように分かるようになりました。先に釉が溶けてしまうと、それ以上は土が育たないということです。生地にケイ酸分が残っていないため粘性が無く、骨で例えると骨粗鬆症の状態です。割った志野茶碗の中には火色や貫入が綺麗に入ったものもありました。

 

藤田先生は選別の優先順位が他の方とは違いますね。普通は見た目が一番ですよ。反対に志野になったのは、なぜだとお考えすか。

 

長年の経験上、最低二週間は窯焚きをしないと桃山志野は焼けないということ、そして窯の中で火の通り道にいたということも分かっています。しかし、あとは正直私にも解りません。解らないからこそ、どの作業もどの工程も手を抜くことが出来ないのです。しかし、窯焚きも数をこなし様々な経験を重ねていくうちに数が取れるようになってきて、ひと窯に七碗もとれたことがありました。本来は喜ぶべきことなのですが、同じような志野茶碗が七碗も生まれてきたことに私は疑問を感じました。同じような志野茶碗がはたして何碗も必要だろうかと。そこで、私はあえて今まで経験したことの無い未知の方へ賭けて窯焚きをするようになったのです。

 

同じものを焼こうと思っていないところが藤田先生らしい破天荒な発想で、そんな男のロマンに共感する大勢のファンの方から支持されていらっしゃるのですね。ところで、ひと窯に一碗か二碗とれてあとの志野になっていないお茶碗はどうされるのですか。

 

全部割って捨ててしまいます。今までに十三万個以上の志野茶碗を割ってきました。未練がましく手元に置いても、それ以上のものは絶対に焼けません。それに私がいなくなった後、良くない作品がお化けみたいに出てきても困りますからね。そうはいっても、私がいなくなった後々まで生きていけるかを見定めて選別する作業には辛いものがあります。どこか一つでも良いところを探して、できるなら残してやりたいのが親心ですから。

 

たとえ綺麗な火色や貫入があったとしても土が焼けきっていないもの、納得のいかないものは先生の厳しい選別の目によって割り捨てられてしまうのですね。そういうところにも藤田先生の精神性がうかがえます。古窯跡から志野の陶片が多数見つかっているということをお聞きしますと、桃山時代の陶工たちも志野になっていないものは先生と同じような気持ちで割っていたのかも知れませんね。そう解釈すると桃山期の志野茶碗の数が少ないことも納得できます。先ほど先生のお話にあった、桃山時代の陶工たちは「職人+アーチスト」だったとおっしゃった意味が分かる気がしてきました。ところで、先生の志野茶碗の中には四週間もの長い期間、窯焚きをされたものがあるそうですね。

 

二十八日窯は今までに六回焚きましたが、成功したのは四回だけです。何碗かは焼けましたが、四週間にもおよぶ窯焚きでは死ぬ思いをしましたので、もう焚きたくないというのが本音です。それに実際、体力的にもう焚くことは出来ないでしょう。

 

二十八日窯から生れたという数少ない、その志野茶碗は藤田先生の目指したものだったのでしょうか。

 

「過去にも存在していない志野茶碗」、「私自身も、もう焼くことの出来ない志野茶碗」という意味では私の代表作だと言えるかもしれません。私は桃山時代から継承されていない志野茶碗を再興するために、この六十年余りを窯焚きだけに懸けてきました。気力も体力も限界と思える中、もう一日、もう一日と日延べしながら焼き続け、気が付けば二十八日間も窯焚きをしていたということです。最初から二十八日間焚こうと思っていたわけではありません。

 

限界を超えた先に生まれた志野茶碗ということですね。先ほどもご自身で分析されておられましたが、自分自身に対しての負けず嫌いの成果とも言えますね。焼きものに精通された方々からの絶大な支持を受けていらっしゃる藤田先生の志野茶碗ですが、その継承ということに関してはどのようにお考えですか。

 

生まれもったものや、感性、第六感などと言われるものは教えようが無いため、難しさを感じます。しかし近道を教えてあげられるという意味で、私が実際に体験してきたことを聞かせたり見せたりすることは可能です。そのことを参考にして次世代に桃山志野を、それ以上のものを作り継いでほしという願望はあります。自分一人だけが得をしようという考えは無いので、私には嘘や隠し事は一切ありません。同じ時代に生きた者同士が助け合って良いものを後世に残せたら素晴らしいと思っています。そのため、手元に持っている十六トンの百草土も必要な方には分けていますし、志野石の採取場所や採取方法なども詳しく教えています。県外から愛媛県の私の与州窯工房へわざわざ来られ轆轤挽きや削りを練習する人もいます。細かいことを言えばきりがないですが、先ずは「作っては壊す、作っては壊す。」を繰り返し、頭ではなく手が覚えるまで何百回、何千回と数をこなすことが重要です。

 

継続は力なりですね。各地で開催されていらっしゃる藤田先生の茶陶展『桃山志野現代に焼く』には、若い陶芸家の方も多く、熱心にご覧になっていらっしゃいますね。三十碗も並んだ志野茶碗に皆さんは度肝を抜かれますが、先生が二十歳代に焼かれたという井戸茶碗や萩茶碗なども、現代の人が焼いたように見えないと驚いていらっしゃいます。

 

私も初めから桃山期の志野を目指していたのではないので、若い頃は井戸茶碗や萩茶碗、唐津茶碗、粉引き茶碗など、ほとんどの種類の茶碗を焼いてきました。焼けた当初から古作を思わせるような雰囲気の茶碗もたくさんあります。それに、二十歳代に焼いた茶碗はもう五十年以上は経っているので、古いと言えば古いですよね。いつの時代のものであっても、作者が不詳であっても良いものは良いということでしょう。結局、見る人が見れば分かるということです。

 

藤田先生の茶陶展には、その「見る人、見える人」が全国から大勢見えられるということですね。売り買いの無い、展示のみの茶陶展を開催される目的はそういうところにあるのでしょうか。

 

茶陶展に来場してくださったお客様の反応を見るということも確かにあります。数寄者やコレクターの方など、やきものに精通された方が大勢ご高覧くださいますから。「私が半世紀を懸けて焼いてきた桃山志野は、皆さんの目にどのように映るのだろうか」と。そして自分が桃山志野に懸けてきた半世紀に間違いはなかったのだという再確認ですかね。今まで桃山志野を焼いてきて思うことは、歴史的価値は別として桃山時代のものだから価値があるのではなく見る人に感動を与えられたから価値があり、時代を超えて見る人を魅了し続けているということです。私の茶陶展に初めて来場していただいた若い男性の方から、「・・・半世紀という長いあいだ桃山志野に挑戦した一人の陶工の意地と美意識の目線の高さが成せる技だと思わされました・・・」と後日、嬉しい手紙を頂戴したことがあります。茶陶展会場で一碗の志野茶碗の前で涙する方、離れがたいご様子で何度も何度もその茶碗の前に座られる方、会期中毎日来てくださる方など様々な想いで茶碗と対話されていらっしゃいます。妻にどうしても見せたいと、次の日に入院中の奥様を連れて来られた方もいらっしゃいました。何の説明もいらない、『茶碗がすべてを語ってくれる』それが全てです。プロでしたら、当然どこの土や釉薬を使ってどのくらいの日数焼かれたものかは現物を見れば直ぐに分かりますが、それ以上にその茶碗のもつ雰囲気が大切なのです。私は理屈ぬきに、見る人や使う人に感動を与えられる茶碗こそが本物であると思うのです。茶陶展では、「手に取ってご覧ください。」と、ご来場のお客様には声をかけています。志野茶碗の透明感のある艶やかな肌や貫入、柚子肌など目で見えるものだけではなく、手触りや重さ・持ち具合などは実際に手に取ってみないと分からないことが多いですからね。戸惑っていらっしゃる方には、「低い姿勢で両手で持ってご覧ください。高台をご覧になりたい時は中(見込み内)に四指を入れてクルッと回せば見れますよ。茶碗は洗えば綺麗になりますから。」と。実際にその所作を見せますと、小さなお子さんたちも全部の茶碗の前に正座して得意げに見ています。ご来場のお客様には、茶碗たちと対話をしていただき心の目をとおして何かを感じとっていただければそれだけで充分です。今後もご縁を大切に、お逢いすることができました大勢の皆様と有意義で楽しい時間を共有できれば茶陶展開催の意味があったと思います。

 

破天荒で勇往果敢な藤田先生の人生に触れ、その分身とも言えるお茶碗に接することが出来る私たちも幸せです。手術が成功したにもかかわらず何年も座すことの出来なかったご年配の女性が、初めて来られた茶陶展の先生の前で興奮して自然に座れたというお話もありますが、先生の茶陶展では一期一会のおもてなしの心がひしひしと伝わってきます。先生はいつも、愛媛県から愛車のランドクルーザーをお一人で運転され茶陶展会場まで行かれますが、東京までだと九百キロ近くはありますね。

 

何事も人任せには出来ない性分なので、出来る限り今後もこのスタイルは続けていきたいと思っています。運転ができなくなったら茶陶展もおしまい。死ぬ時が来たら死ぬのが一番です。

 

藤田先生ならではの深いお言葉です。

 

先ほど話にあったランドクルーザーですが、この車にも縁があったのです。腰痛で歩くことも寝ることも困難だった時に、よくこの車に逃げ込んだものでした。この座席のシートだけが痛みを和らげてくれたのです。今も長距離を走れるのは、この車のお蔭かも知れません。「物縁も仏縁」と言いますが、人と物との間にも縁が存在すると思っているので第一印象や直感も大切です。物の方も、気に入った人には一生懸命テレパシーを送っているかも知れませんね。

 

藤田先生のお話をお伺いしていますと、物縁も仏縁って本当あるのだとあらためて思ってしまいます。今後の活動については、どのようにお考えですか。

 

制作については、生涯現役で今も茶碗を焼き続けていきます。若い頃は土を探すために山へよく登りました。日本アルプスへも時間を見つけては幾度となく登ったものです。山登りも途中が楽しいでしょう。清々しい空気を吸いながら目標に向かって一歩一歩、歩いて行く。でも頂上へ着いたらあとは下るだけです。私のやきものも完成したと思ったその時点で終わってしまいます。途中が、そして未完成が最高だと思っています。実際、現在も茶碗作りは勿論、知恵を絞り作戦を練っては陶材探しや窯造りにも励んでいます。年々楽しさが増しているようにさえ思えます。

 

八十才を過ぎられても、年々楽しさが増すって素晴らしいですね。その冒険心や探求心を若い人たちにも持ってもらうことが、本当の後進指導ということになるのかもしれません。事実、藤田先生の行動や生きる姿勢に元気をもらっているという方は多いですから。

 

技術を覚えることはもちろん重要ですが、それ以上に心を磨き品格を養ってほしいと思います。私自身、今も品格磨きの修業中です。

 

「品格磨きの修業中」って、良い言葉ですね。今後の茶陶展に関しては如何でしょう。

 

実際に手に取って茶碗を鑑賞していただくというスタイルの茶陶展は、作家本人でないと出来ないと思っているので、十年以上前から続いている茶陶の美術館であります東京の畠山記念館(東京都白金台)での茶陶展は出来る限り今後も継続していければと思っています。また、ご縁をいただきお付き合いさせていただいております、千利休の御膝元であります大阪府堺市の近郊にあります正木美術館(大阪府泉北郡忠岡町)に、私の作品をお預けしていますので正木美術館での茶陶展も継続していければと思っています。

 

正木美術館へは、どのような作品を預けられたのですか。

 

2010年に出版した、作品集『桃山志野現代に焼く』に掲載の志野茶碗を中心に井戸茶碗や萩茶碗などのお茶碗をお預けしております。

 

作品集『桃山志野現代に焼く』のご出版にあたられては随分とご苦労を重ねられたとお聞きしていますが、その中でも一番ご苦労をなさったのはどういった点だったのでしょう。

 

何もかもが初めてのことで構想から5年、6年は経っていました。試行錯誤の末、見本となる一冊を作ってしまったほどです。なかでも一番時間を費やしたのは志野茶碗90点の写真撮影でした。最初、プロで活躍中の友人に撮影依頼をしましたところ「登太郎さんの写真はワンカット10万円でもイヤだ。」と断られてしまいました。長年の付き合いなので、拘りだしたらキリがないことを知っていたからでしょう。

 

写真撮影のどのようなところに一番時間がかかったのですか。そして、その見どころとはどのようなところですか。

 

志野茶碗のもつ雰囲気を一番大切に、そして自然な形で表現したかったので、それぞれの茶碗を様々な場所や時間帯で撮影しました。自然光の入り方や角度を替えて一碗に何十枚も撮影し、その中から厳選しました。紙の種類やプリンターによっても微妙に色が違うことが分かったので、何社ものメーカーのものを取り寄せて使い分けました。そのプリンターも使い過ぎて何台も壊してしまったほどです。作業を全部終了し、いよいよ印刷所へ送る準備を終えた後も、一晩寝ると気になる箇所が次々と出てきてまた初めからやり直したという経緯もあります。印刷後の雰囲気も気になったので、愛媛県から長野県の印刷所までわざわざ志野茶碗を持って出向き、いろいろ指示させていただきました。一生のうちに何冊も作れるものではないと思い、ペーパーの質や色、爪にまで拘りました。装丁に使用する革も自分で探し、その革装丁に印字している「桃山志野現代に焼く」も通常では使用しないという二十四金の箔を使用してもらいました。

 

写真もプロの藤田先生が手こずったという作品集は、拘りと思い出がたくさん詰まっているのですね。装丁を拝見しただけでもその重厚さが伝わってきます。実際の志野茶碗を前にしているような興奮や感動があり、志野茶碗の立体感のある造形や凛とした空気感や影のひき方などにも拘りが感じられました。志野茶碗とそれぞれに付けられた銘、そしてその志野茶碗に詠まれた和歌が一体化しているところも見逃せません。この和歌も先生が詠まれたものだそうですが、90碗すべての志野茶碗に和歌を詠んでいらっしゃるのですね。

 

和歌は若い頃から日記がわりに詠んできました。数にすると六万首以上になります。まだまだ更新中ですので最終的にはどれくらいの量になるのか分かりません。以前、和歌集を作ろうと考えたこともありましたが今は段々と自然に無くなっていけば良いと思っているので、ご縁をいただいた方々に差し上げることもあります。この作品集『桃山志野現代に焼く』の最初のページに詠んだ和歌は、実は私の辞世の句なのです。私は十数年前に末期癌の宣告を受け、あと二カ月の命だと医師から告げられました。摘出手術前日の夜に詠んだ私の辞世の句から始まって、私の辿って来た人生を回想するような順番で綴っています。例えば、最初の方に掲載の「熱田津(ニキタツ)」と銘を付けた志野茶碗には、「にぎたつに安芸潮はやす来島の岩たつまにま泡たちながる」という和歌を詠んでいます。熱田津は愛媛県を指し、泡(阿波)は徳島県を指しています。本来、熱田津の熱は「熟」という漢字ですが、私は熱い想いを抱いて徳島県から愛媛県へやってきたということを詠んでいるので、あえて熱という漢字を使っています。最後の敦盛という銘を付けた志野茶碗には幸若舞の一節を用いていますが、私は「下天」を化けて転ぶという意味で化転としています。私も初めから桃山志野が焼けたわけではないので、作品集の中にはそのことを現わすために牛乳のような白い肌合いの現代志野の茶碗も何碗か載せています。

 

末期癌であったことを何ごとも無かったかのように淡々と皆さんにもお話されていらっしゃるところも藤田先生らしいですね。

 

手術は一度だけではないので身体中に傷跡があります。お腹にファスナーを付けてほしいと言ったほどです。胆のうもありませんが平気で油ものも食します。癌だと告知された時も冷静で自分は死なないのではないかと思っていました。とにかく病院から早く出て、造りかけの窯を完成したかったし、お酒も飲みたかったですね。「あと二カ月の命だろ!」と言って癌摘出手術後は放射線治療も抗癌剤治療も受けなかったので、本人よりも医者の方が気にかけてくれていました。

 

十数年前に放射線治療や抗癌剤治療を受けないという選択をされた藤田先生の精神力、そして生命力には驚きます。熱い想いを抱いて徳島県から愛媛県へやって来られ、桃山志野の再興に懸けた自分の人生を綴った作品集ということですから、やはり先生ご自身が写真を撮られたのは正解でしたね。それに、様々な箇所に拘った理由もよく分かりました。普通は本を出版する時は自分の代表作や気に入ったものを中心に掲載すると思うのですが、人生に沿った志野茶碗を掲載されているところが先生の作品集らしいですね。

 

作品集にも載せていない、茶陶展でも披露していないという志野茶碗も幾碗かあります。作品集『桃山志野現代に焼く』は、国立国会図書館の東京本館と関西館にも一冊づつ納本しています。愛媛県の与州窯工房のほか各地で開催中の茶陶展会場でもご覧いただけますので、機会がありましたら是非ご覧になってください。

 

時代の流れの中に桃山期の志野茶碗があり、四百年以上の時を経て藤田先生の焼かれた志野茶碗が存在します。お話をお伺いしておりますと、藤田先生だからこそ桃山志野が焼けたのだと思わずにはいられません。ご自身が長年培ってこられました体験が語り継がれ、後世にまた素晴らしい志野茶碗が誰かの手によって生まれてくることを願っていらっしゃる藤田先生は、やはり本物のアーチストなのだと思いました。

 

2020年6月 更新

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